リバティ号から久し振りに記事を投稿致します。
 昨年の3月にパナマを出て、マルケサス、ツワモツ、タヒチ、クック(ラロトンガ)、ニウエ、トンガ、フィジー、ニューカレドニアを経て11月にオーストラリアの東岸のバンダバーグに到着しました。 オーストラリア到着をもってリバティ号は太平洋を往復し、私としても何か一段落した心境になっています。

 名所?オーストラリアへの訪問には南太平洋のサイクロンの季節をやり過ごすという副目的もあり、2008年の3−4月まで滞在をと考えています。到着後早速サイクロンがオーストラリア北東端に居座り、今年はサイクロンの当たり年では、とか言われており、「遥遥やって来たのに、今更そんなこと言わないでよ!」とほざいています。

 もともと私は自衛隊現役時代には49.7浜松での細江官舎地区の七夕洪水、53.7松島での宮城沖大地震、そしてH7.1の郷里神戸・淡路での阪神大震災と要所要所で自然の災害を経験し、「厄病神との親交が厚い奴」と言われておりました。しかし、既に退役したことだし、外地でもあり、更には宗旨も違うサイクロン殿とは極力お付き合いをご遠慮申し上げたいと願っております。

 当バンダバーグは如何にもオーストラリアらしい牧歌的な纏まりの良い街で、バーネット川沿いにあり、太平洋岸からは約15Kmほど内陸部にあります。 マリーナ(Midtown Marina)は市街地近傍の川岸にあり、リバティ号は川中のブイに掴まって停泊しています。上陸はディンギィでの往来となりますが、海と違って流れが速く、エンジン不調の時の手漕ぎは、ほろ酔いも醒めかねない、かなり真剣な様相となります。 と、ここでは私ものんびりと過ごし、命の洗濯をしていますが、のんびりし過ぎて、11月下旬にクリスマスの挨拶をしたり、朝の川辺の散歩に運動靴を忘れて裸足で歩いたり(結構いけます!)して野蛮人になったりすることはザラです。

 南太平洋の海は北太平洋に比べ風波共に穏やかで、広範に及び珊瑚礁を擁し独特の景観を陸上あるいは水中に呈し、そこに住む底抜けに明るいポリネシア民族と相俟って「楽園」を形成しています。 しかしこれ等楽園も絶海の島々で、私にとってはなんとか安全に行き着くことが精一杯で、目的地に着いたらホッとして一時放心状態になったります。そして気を取り直し、船の痛んだ箇所の修理や次の行き先の情報入手等次なる航海への準備に追われ、なかなか手放しで楽園に浸る余裕はありませんでした、というのが実情です。

 長期クルージングのどのヨットでもこれ等補修と準備のプレッシャからは放たれることは無いようですが、旅慣れた艇長は処置事項の優先順を上手く片付け後は保険に任せ、このプレッシャに打ち勝ち遊ぶべくをしっかり遊んでいるようでした。

 南太平洋では、ここオーストラリアで初めて太平洋戦争の地に来たという感じを受けるようになりました。それは戦史で学んだ数々の地名が近づいて来るからでもあり、或いはオーストラリアの人達との何気ない、呑気な話の中に微妙なWWUの体験談が直接・間接に出て来ることがあるからです。ここには日本軍と戦った軍隊があり、往時の軍人もおり、その人達の多く意識は「被害者」なので「加害者」の末裔としては始末が悪いのです。 日本人として、特に自衛隊出身の私としてはこの地にいるとき、あるいは彼等との接触の折にこのことを忘れず、襟を正して臨むべし、と自覚をしています。 また、これからの戦史地域への航海に際しても、ミッドウエーに於いてと同様、精神を研ぎ澄ませて船を走らせたいと思っています。

 ヨット同士の欧米人の情報のネットワークは極めて盛んで、私もそのおこぼれを時々貰いながら事なきを得て来たのが現実です。必要情報の交換は、日本人同士のそれとは異なり、仲良しグループ以外の人達とも実にフランクなやりとりがなされているようで、国民性の違いを感じる次第です。 それにしても日本のヨットが少ない!ということを日本に近い海域に近づくに従って強く感じています。タヒチぐらいに来れば日本のヨットともっと頻繁に会え、日本語での交歓が出来るものと楽しみにしてましたが、何百杯というあの多くの欧米のヨットの中で日の丸艇は我がリバティ一杯のみでした。(その後タヒチを出る寸前に海自OBの関さんがシングルハンドで乗ってるポレール号と同じ岸壁に船を並べることが出来、感激しました。 ちなみに3年前に日本を出て以来外地で出逢った日本のヨットは、Nirai、秋津島、Emu 2、 ポレールの4杯です。) 日本ヨットの少なさは本当に不思議で何がどうなってしまったのでしょうか? 海洋国家日本は一時の虚像だったのでしょうか? やはり日本人は、鎖国の好きな「お宅」国民なのでしょうか?  仕事が忙しく長い休みが取れないからなのでしょうか?  楽しいことはヨットだけがはない、というのはその通りですが、あれだけヨットが日本に溢れていながら、なぜ国外ではこれほど見かけることが少ないのでしょうか? 太平洋に植民地時代以来の歴史的な権益を有する国々のヨットが多いのは別としても、それに関係の無い極めて遠方の北欧諸国のヨットの方が、比較して近くの日本のそれよりも遥かに多いのです。 和辻哲郎の「鎖国」をもう一度読んでみたいと思います。

 この旅を始め、中米以降世界中からのバックパッカーを目にすることが多くなり、ひいては我がリバティ号も外国のバック・パッカーをクルーとして乗せることになる訳ですが。 最初はバックパッカーとの接触は、マリーナで他のヨットに乗っているバック・パッカーと話をしたり、あるいはヨットクラブで、乗せて欲しいバックパッカー、乗って欲しいヨット両方の需要と供給のすり合わせの場に集まる連中を見かけたりすることから始りました。その後メキシコ、エルサルバドル、コスタリカ、パナマ、あるいは旅先のマチュピチュ等で陸路(空路)旅をするバックパッカーをより多く見かけ、時として仲良くなったりするようになりました。バックパッカーの多くは欧米の白人の若者が大多数ですが、日本の青年もマチュピチュ等の名所には数多く居ることも次第に分かって来ました。その後、マルケサス以降のフレンチポリネシアに始る南太平洋に入ると日本人がより多くなって来たように感じました。 但し日本のバック・パッカーで内外のヨットに乗り込んで旅をしている”seaworthy”な若者には、一人の例外以外に会ったことがありません。(その例外は、イギリス人のパックパッカーの彼女で、彼と一緒にフランスのヨット乗り込んでいる勇ましい日本女性をお見かけしたことでした。)

 ここオーストラリアに来るとバック・パッカーの模様が変わり、「ワーキング・ホリデー」の日・韓の青年男女が突然増えます。ここバンダバーグでは圧倒的に韓国人の連中がマジョリティで、次いで日本となります。 彼等は、近郊の農園で菜園や果樹園での収穫作業(今はトマトだそうです。)の戦力となって、毎日早朝からバック・パッカー宿から送迎のバスで団体行動をし、夕刻、歩合制労働に疲れ果てて帰ってきます。(なにか収容所の強制労働のように見え、なかなかの迫力がある若者達の実態です。) 日本ではただブラブラしているかに見えた若者男女は、「こんなとこで他所様にこき使われてるんだ!」と新たな発見をしました。 だけど彼等は日本で見る同世代の若者達よりも幸せそうに見えます。

 海外でのヨット・クルージングの中で、航空自衛隊で身に着けた素養で最も役立っているのが英語能力であるということは以前にも述べたことがあるように思いますが、この外国人バック・パッカーのクルーを乗せるようになってなお更外国語能力の必要さを実感しています。日本を離れてこれまでに夜を越す航海に我がリバティに乗り組んだ外国人は、カナダx2、独x2、米x1、墨x1、タヒチx2の延べ8名ですが、これも「公用語」の英語のお陰で実現できたものです。 英語国民以外との英会話は発音が異なり理解に苦しむこともありますが、双方共に「外国語」と気楽で、面白いものです。英語を学んだ月日の長さでは多くの場合私が一番ですが、会話能力はいつも彼らには敵いません。私は堅苦しい単語のボキャブラリでは彼らに負けませんが、ジョークとか「言い合い」の能力では彼らに劣ります。 ヨーロッパ語同士は私の目からは単に方言の範囲と受け取れ、さもありなんと思う次第です。

 さて、JAAGAの名誉会員でもあられる米太平洋軍司令官、へスター大将が昨年12月で退役されましたが、我が艇もそろそろ「与国」の制空権の傘の下を離れる潮時になってきたようです。 次はどこを目掛けるかなー?  今後リバティ号の活動を維持し、あわよくば更に広範なものにするため目下、財政サポータ発掘のキャンペーンを考えている次第ですが、心当たり、あるいは何かヒント、がございますればご一報下さい。 また、リバティ号に乗り込んで手伝ってやろう!と思われる向きは大歓迎です! 最後になりましたが、JAAGA一番の「米空軍通」としてご活躍の最中昨年急逝された、岩崎克彦役員の霊に謹んで哀悼の意を捧げます。

     オーストラリアにて翼ならぬ帆を休めるリバティ号より  林 昭彦
    

 

リバティ号便り No.4 (12月22日)