ポーツマスにて

 「ポーツマスには行きましたか?」という挨拶が、ボストンに滞在する日本人の間で合言葉になるほどですから、我々の世代の日本人にとってはとても特別な存在の街といえます。 ボストンから車で約1時間北上した所にそのポーツマス市はあります。 今のポーツマスの港町に「日露戦争終結のポーツマス講和条約締結の舞台になった所」という面影はほとんどありませんが、講和会議の行われた米海軍工廠第86号ビルは今も現存するそうです。但し、立入りには手続きが必要です。 来月半ばに基地立入りを御願いしようと思って「ポーツマス・NAVAL・SHIPYARD」の担当窓口に電話した所、こちらが訪問理由を言う前に「86号ビルの見学でしょう?」と、とても親切に対応してくれました。我々以外にも日本からの訪問客がかなりいるようです。

      
    日露講和会議の行われた建物       講和会議記念プレート

 当時から百有余年も経っていますので、両国の代表が宿泊したといわれるホテルはもちろん建て替えられていますが、現在のホテルと同様にとても瀟洒な人気の建物だったようです。そのホテル近くの公園に佇み、内海越しに海軍工廠を眺めると、百年前のここポーツマスで日本の歴史は大きく動いたということを強く感ずることが出来ます。

    
     昔のウェントワース・ホテル     講和会議のあった海軍工廠を望む

 1905年8月8日に日本全権大使小村寿太郎とロシア全権大使ウィッテの両名一行は船でポーツマスに到着。祝砲共々、町を挙げての大歓迎を受けたそうです。 そして、海軍工廠 86号ビルにおいて8月10日から講和会議が開かれますが、会議は難航し、途中では流会の恐れもあったほど。 紆余曲折を経て9月5日にようやくポーツマス講和条約が締結されました。

          
      講和会議風景                講和会議のスケッチ

 日露戦争自体は、戦場を限定した局地戦争でしたが、背後にイギリスやフランスを同盟国に配し、東洋の小国黄色人種の日本が、ヨーロッパの大国白色人種のロシア帝国に立ち向かったという、一種の世界戦争といわれています。
 当時、国力と軍事装備に劣る日本がとった戦略は、例によって作戦当初に奇襲的にロシア軍に大打撃を与え(「この時も宣戦布告前の攻撃」との指摘も・・)、戦況が有利な段階で英米などに講和斡旋を依頼して早期に戦争を終結させることでした。
 講和当時、日本は経済的にも軍事的にも戦争続行は難しい状況でしたが、勝利に沸く日本人は、多額の賠償金獲得等を期待します。他方、ロシアは国内に難題を抱えつつも「継戦可能」と強硬姿勢を貫きます。 結果的に、これ以上の継戦は不可能であった日本が譲歩しこの調停を成功させたい米国がロシアを説得するという形で事態を取り纏め、戦争賠償金には一切応じないという条件で交渉は締結されました。この交渉の末、日本は、満州南部の鉄道及び領地の租借権のほか、戦略目的であったといわれる「大韓帝国における排他的指導権」を獲得しました。
 このポーツマスにおける交渉は、小村特命全権大使のみならず、時の政府や軍部首脳が、開戦前から条約締結に至るまで、戦局や両国の国力、潜在力及び世界の情勢等を冷静に掌握して、結果的に大局を誤らない選択をしつつ強かに交渉をしたということで、後の大戦との対比を考えることも含め、非常に示唆に富む史実ではなかろうかと思います。
 100年前のヘラルドトリビューンのコラム欄に当時の交渉状況が連載されていますので引用紹介します。両国の交渉を見つめる当時の周辺状況がよくわかり、一面、広報戦争であったことも伺えます。

当時の推移は以下の通り。

8/22   T・ルーズベルト(米)大統領、金子特使に金銭的要求の放棄を勧告
8/28  御前会議、日露講和成立方針を決定
9/05   ポーツマス条約調印 (首席全権:小村寿太郎/日露戦争終結)
9/05   講和反対国民大会開催 (東京・日比谷)
9/05   日比谷焼き打ち事件 
9/06   東京に戒厳令

1905年8月5日
 ポーツマスで開かれている日露講和会議。その行方を当地の男女・子どもも全て、期待を持って見ているが、ロシアのウィッテ全権大使がみなの心を捉えた。今やニュー・ヨーク随一の人気者である。ニュー・ヨーク到着直後から親しみを込めた関心の的であり、新聞は彼を飽きずに追い続けている。彼の幸運を願わない者は一人もいなかろう。彼は、大統領と「オイスター・ベイ」で昼食を共にした。

「坂の上の雲」から「ウィッテ」について
 「ウィッテはこの時代のロシアにあっては傑出した財政家で、アレクサンドル三世とニコライ二世の両帝につかえ、大蔵大臣をつとめ、のち総理大臣になった。どちらかといえば非ロシア的な人物で、西欧的教養と思想をもち、ロシアそのものの批判者としてもその言葉はつねに警抜であった。」

8月9日 
 平和使節団は尊敬を以って迎えられていて、この会談のために街はお祭り騒ぎ。勝者は日本なのだが、予想に反してロシアの使節団も日本同様暖かいもてなしを受けている。これは専らウィッテの人格に負うだろう。彼は到着以来、特に何もしないでも、日本を日陰に追いやっている。彼は如才なく、どんなときでも親しみが持てて、庶民的で愛想良い。

8月15日
 日・露和平交渉は、困難が多くて、ヨーロッパ各国の首都には悲観論が流れているが、それでも新聞論調が異口同音に平和を望んでいること、大統領が挨拶で述べたように「会談の唯一可能な結論は、絶対的な平和だけだ」と確信していることは意味深いことである。

8月18日
 17日はまたもや重大な交渉の日だったようで、群集が代表団を一見しようと集まった。ロシアの代表は満足して陽気。日本代表は誰にも気づかないほど深い物思いにふける。

8月24日
 和平使節の仕事の結果は、協定の4条項についてはサインされ、3条項は未だサインに至らず、他の一つは棚上げされた。棚上げされたものは、東シナ鉄道に関するものである。ウィッテ氏は疲れきっているらしい。新しい提案があるのかと聞かれて、姿を変えただけの古い提案を新しいと言うならね、と。

8月26日
 近頃の状況を見ると、日本の新しい提案というのは、和平を結ぶか戦争を続けるかの決定をロシア側に投げたものらしい。ウィッテはそんな責任を取りたくないから、皇帝に問い合わせた。だから、舞台は再びペテルスブルグに移り、皇帝の決定を固唾を呑んで待っている。

8月27日
 講和会議の今日の会議を見ると、ルーズベルトに後押しされた日本とペテルスブルグに意見を諮っているロシアの間に大きな闘いが展開している。大統領はこの3日間会議が今日終わらないように苦闘してきたし、ロシアは、折り合いがつかない相違点があって、これ以上努力しても無駄であると信じて、交渉を直ちに終結させたいと思っている。そして明日ポーツマスを去ろうと荷造りをした。日本側は、交渉はそれほど直ぐには終わらないという意見である。明らかになってきたことは、ルーズベルトの主張は日本側に支持され、会議の継続が決まったと発表された。

8月29日
 まもなく交渉の重大転換が起こるだろうという強い感触がある。日本側もロシア側も否定しているが、東京で内閣が元老に対する優位を得た結果、日本側が賠償金を諦めらしい。また樺太の問題も友好的に解決されるらしい。日本からの来訪チームは、非常に興奮し、幾人かはそのような降伏が見込まれることに涙を流していた。ウィッテ氏は、妥結に達したというのはたわごとに過ぎないという。しかし、私は、日本側関係者から、まったく新しい申し出がなされて早急な妥結に至るだろうという確かな言葉を得ている。今夕、高平氏(駐米大使)は、ウィッテ氏との秘密会議を手配した。ウィッテ氏の部屋に入るところを目撃され、ついで引き返しホテルを去り木々の間を歩いていった。

8月30日
 和平は突然やってきた。そのすばやさに、心待ちにしていた日本とロシアの外交団さえ驚いたほどだ。昨夜の電報で平和が近いと報道された動きは、一瞬の遅滞もなく妥協に向かい、日本側にとっては降伏に等しいものであるとわかってきた。今我々にわかることは、ウィッテ氏が語る主要な諸点のみである。つまり、日本は樺太をロシアと二分する。日本は寛大にも捕虜に対する食料費を支払う。日本は戦費補償の要求を撤回する。停戦は目下ロシア皇帝と日本の天皇が連絡して調整している。条約はいまや仕上げの段階にあるが、ロシアは戦費に1コペイカも支払わない。

9月6日
 昨日午後に行われた講和条約の調印は、極めて厳粛に終了した。 その後、ウィッテ氏は、小村男爵と握手。同僚もそれに従い、ロシア人と日本人がテーブル越しに右手を固く握り合った。ローゼン男爵がまず沈黙を破り、ウィッテに代わって言葉を述べ、日本の全権大使を真の紳士として称え、ついで小村男爵が同様の言葉で応えた。

9月7日
 小村男爵は講和条約の調印が終わってルーズベルトに電報を打ち、言った「講和会議の開始と成功裏の結果に対して貴君に人間性の名において永遠の感謝を負うものである」と。そして、個人としての心からの感謝も伝えた。  
 一方ウィッテとローゼン男爵も、大統領に電報を打った。「貴君が平和のために為した事に対して我々が感謝するのではない。貴君の高貴なる努力はわが最高統治者が適切に感謝するところである。」

9月14日
 横浜における騒動は、昨日9/12国民集会をとめようとしたことから来ている。 26の衛兵小屋が焼かれた。警官は繰り返し出動しなければならなかった。約40人の警官が負傷、17人は重症である。兵士を乗せた特別列車が東京を発った。兵士は巡回して外国人居留区を守っている。

10月17日
 ポーツマスで締結された日本・ロシア間の講和条約の原文が、10/15、公開された。下記は、ロイターを通して入手した抜粋である。 「日本の天皇とロシアの皇帝の間には、またそれぞれの国と国民の間には、今後平和と友好が存在するであろう。ロシア帝国の政府は、日本が朝鮮で政治的・軍事的・経済的利益を保有することを認め、日本帝国政府が朝鮮で行う指導・保護・管理のやり方に、一切妨害も干渉もしない。」  
(ボストン在住、永岩会員記)

ボストン便り No.3