皆様こんばんは。本日は日本において日米のエアフォースの空軍将兵の間で有名な行事となったこのイベントに講師としてお招きいただき、ありがとうございます。お招きいただいたことを光栄に思う理由が二つあります。一つ目は個人的なことであります。
皆様ご存知のように、JAAGAが1996年に設立された当時、私は初めての日本勤務をしておりました。その目的は、航空自衛隊と米空軍の友好関係と相互理解の促進でありました。航空に関することへの愛情と、自国への奉仕をその理解の基礎とし、その優良性が時間をかけて証明されていきました。私が日本へ戻ってくるたびにJAAGAの素晴らしい活動をこの目で見て参りました。
いろいろな意味においてJAAGAの任務は第5空軍の任務と良く似ています。第5空軍副司令官の私には、在日米軍兼第5空軍司令官ライス中将の焦点に沿た三つの主要な任務があります。それらは、空軍関係者のケア、統合共同の防衛機能の強化とカウンターパート及び周辺住民の方々とのより良い関係の構築です。
先ほど申しましたように、JAAGAの任務と大変よく似ています。そしてこれが私が本日ここにいることを光栄に思う二つ目の理由につながります。今年は日米相互協力及び安全保障条約締結50周年の節目という特別な年にあたります。
我々の関係は安保条約によって具体化された共有する利益と価値に基づいており、同盟が時の試練に耐えてきたということは、日米両国がこの関係を重要視してきた証でもあります。
安保条約について語るとき、しばしば安全保障の面を強調しますが、協力という面が強固な同盟を維持してきました。航空自衛隊のOBや支援者の皆様はよく理解されていると思いますが、大体の場合協力面が最も重要であります。数十年に亘り数々のプロジェクトがこの同盟を強くしてきました。それらはここにおられる皆様無しでは成し得なかったことです。これまでの実績について、特に空軍にとって重要ないくつかを話しますが、皆様の協力無しにはできなかったことでありますので、まずは感謝の意を表します。
1960年の条約への署名前から第5空軍は自衛隊の設立に関わっていました。その一つに単独の航空自衛隊の設立があります。その数年前に独立した軍種となった米空軍と同様に、航空自衛隊の設立に携わった日本のエアメンには特別な意味があったことでしょう。当時のアメリカ国内では、日本に独立した航空部隊が必要との案には抵抗もありましたが、航空自衛隊が証明してきたように、独立した航空軍種は、適切な航空力の展開に専心することで国防能力の不可欠な要素となります。第5空軍が航空自衛隊設立の歴史の一旦に関わることができたのは誇りであります。
50年代後半になりますと、第5空軍は日本の航空産業の強化促進という新たな役割を担いました。日本企業による部品の製造や米軍機の整備の奨励、そして航空自衛隊初の国産戦闘機であるF-104Jを三菱重工がライセンス生産のするためのロッキード社との契約作りを支援しました。
早期警戒レーダーの管制を第5空軍から航空自衛隊へ移譲するための作業を始めたのもこの頃です。このような事業は何ヶ月ものハードワークと舞台裏で働く大勢の優秀なスタッフによってのみ達成できるものです。彼らの当時の仕事が、現在のミサイル防衛機能や世界のほかの同盟には例を見ないほどの相互運用性の構築の基となったことをきっと誇りに思っていることでしょう。
日米の協力態勢のさきがけとしていくつか紹介させて頂きましたが、他にも多数このような事例があります。ここにいらっしゃる方々が関わった仕事を漏らしてしまったのであればお詫びいたします。時間に限りがあるので、時計の針を進め、現在の私の任務と最近の協力態勢の成果について述べさせていただきます。
現在のいろいろな課題を見るとき、多くの人は日米同盟が以前ほど強くない印であると見るかもしれませんが、視線を移して通称DPRIと呼ばれる「国防政策見直し協議」プログラムにおいて実現した事業を見れば、前例のないほどの協力態勢で成し遂げられたことがお分かりいただけると思います。これらは今後50年以上に亘っての成功の礎となるものであります。
飛行訓練移転を例にとって見ますと、訓練がより現実的になり上空及び地上における日米の訓練参加者間の関わりが一段と増し、シナリオはより複雑になりました。昨年には小松基地においてこれまでで最も規模の大きい訓練を実施しました。この訓練には海兵隊のF/A-18
、空軍のF-16そして航空自衛隊の F-2が参加して、初の統合共同の航空訓練となりました。私自身がこの訓練の信望者であり、より多くの地域でより多様な航空機と機数の参加を促進してこのプログラムを更に拡大することを目標としています。訓練移転プログラムは第5空軍の任務の核となっており、日米関係と相互運用性の向上というJAAGAの目的と同じであります。我々の仕事の中でも最も重要なものの一つであり、もし皆さまが訓練移転プログラムの更なる促進を推奨して下さるのであれば、大変ありがたく思います。
更に意義深いものとして、航空総隊司令部の横田基地への移転があります。東アジアにおける弾道ミサイル能力の増大と脅威及び、地域内の他の国々の急速な航空戦力と防空能力の近代化を見るとき、信頼性のある抑止力維持のために、強化した防衛能力と相互運用性が航空自衛隊と空軍に必要であります。同様に大事なことは、約1,400人の航空自衛隊員が新しく隣人となることによって、個人レベルにおけるより良好な関係構築の機会が日米両国に与えられることであります。
DPRIとは関連はありませんが、現在の同盟の状態を如実に示した最近の出来事を紹介いたします。一つ目は沖縄のラプコンの日本への返還であり、二つ目はハイチでの災害復旧支援活動のために自衛隊員と機材が派遣されたことであります。
空から沖縄に出入りする何万人もの旅行者にほとんど気づかれることなくラプコンの返還が実施できたのは、円滑な移行を保証するために、日米のスタッフが何百時間とその作業にかけたからであります。日本の空域の管制を日本に返還するということは、この同盟が対等なパートナーシップであることの象徴であります。
ハイチにおいて日本が行った救援活動は、世界規模の安全保障に対する日本のコミットメントを示しました。自衛隊がハイチにおいて救援活動に参加されたことは、もちろん皆さんご存知とは思いますが、舞台裏で起こったことはあまりご存知でないと思います。ハイチで地震が起きた時、航空自衛隊のC-130が別の任務のためにカリフォルニアのトラビス基地にいました。C-130は救援活動にはぴったりの航空機でありますが、その機体には貨物用の装備がなく、アメリカが支援をするにもそれが可能な地域とはとはまったく反対側にいました。
航空自衛隊が25名のアメリカ人医師と5トンの救援物資をポルトープランスまで輸送することができるように、装備の貸与とフライトの調整を急遽米空軍が支援しました。また、ハイチからアメリカに戻る際には34名のアメリカ人の被災者をアメリカ本土まで移送し、更に数日間に亘って何度か往復して任務を行いました。私自身、何度か幕僚として仕事をした経験の中で、お役所仕事の遅さに辟易したものですが、今回の事例は、やらなければならないことがある時には、一緒に達成できるという例を示すことができました。
OBの皆さんにぜひ知って頂きたいことは、空幕やメジャーコマンドで働く将官や1佐の方々は、このようなプロジェクトの成功を定着させていることであります。彼らのおかげで、航空に関する様々な案件を日米で協議する場であったACICを復活させることもできました。復活したACICでの成果の一つは、BCRと呼んでいるロードマップのための共同委員会です。BCRでは外薗空幕長とライス司令官が求める、航空自衛隊と米空軍の共同的な取り組みを導くための戦略的枠組みの構築や三つの主要な優先事項について協議を行います。その三つとは、DPRIのロードマップを成功裏に実施すること、効率的に同盟の変革と再編の合意を実施すること、そして日米共同訓練と演習の促進であります。3年から5年先を見据えながら、適時精査し、アップデートしていきます。
航空自衛隊の皆さまのおかげで、航空総隊や支援集団との訓練プログラムや運用の成功がアジア太平洋地域における協力態勢の模範となっています。 最後は、日本における米空軍の発展、特に第5空軍と第13空軍第1分遣隊についてお話いたします。ご存知の方もいらっしゃると思いますが、私は第5空軍の副司令官と第13空軍の前方副司令官を兼務しております。
二つの仕事にとって航空自衛隊との緊密な関わりは極めて重要であります。第5空軍の焦点は、空幕との連絡調整と再編事業、先ほどお話したACICやBCRなどであります。第13空軍は第1分遣隊を通して航空自衛隊の運用部隊と緊密に仕事を進めています。キーンエッジ等の演習での航空総隊と支援集団との緊密な連携は、人道支援活動を始め、災害救援活動や地域の防衛に至るまで幅広い事態に即応できる態勢を整えます。
それぞれのスタッフは密接に仕事を行い、私はACCEと呼ばれる空軍部隊調整分隊を指揮しながら、在日米軍と第13空軍、ハワイの統合軍航空部隊の各司令官を支えるために第5空軍と第13空軍第1分遣隊をまとめています。
最後にもう一つ付け加えることがあります。今日は過去と現在のリーダーのレベルについていろいろと話をしてきました。そしてそのレベルで成し遂げてきたことを私自身とても誇りに思っています。しかし、航空自衛隊と米空軍の若い下士官や将校の日々の任務遂行に触れ、感謝しなければ不十分であります。空軍所属の若い家族に焦点をあて、彼らの数々の犠牲に感謝するため空軍参謀総長のシュウォルツ大将とドンリー空軍長官は2010年を「空軍家族の年」としました。この事に触れるのには二つの理由があります。一つは私自身、できる限り家族の努力を評価し、彼らの支援なしには任務は遂行できないと伝えるようにしています。このことは日本もアメリカも同じだとおもいます。二つ目の理由は、家族も含めてみんなが、冒頭に述べた航空に関することへの愛情で結ばれた大きな空軍家族であると考えるからであります。
これで私の話を終わらせていただきますが、改めましてこの様な機会を頂けましたことにお礼を申し上げます。二つの国が強い絆を維持してきた50年間はとても長い年月であり、頭に浮かんだいくつかの出来事を紹介させていただきました。私のずっと先の後任者がJAAGAの50周年記念行事で私のように皆さまにお話をする幸運に恵まれることを祈っています。今日とまったく同じ参加者ということは無理かもしれませんが、日本は長寿の国でありますので、必ずしも不可能ということはないと思います。まだまだ何時間でもお話しすることはありますが、皆さまのご質問にもお答えしたいので、これで終わらせていただきます。ご静聴ありがとうございました。
(平成22年5月20日、JAAGA総会時講演、グランドヒル市ヶ谷)